ゴーリストブログ

ゴーリスト人事部のブログです。会社の雰囲気・社風や制度など、ゴーリストの情報を発信していきます。

”人に伝える力”とアウトローなメンバー。

こんにちは。ゴーリストの林です。

 

突然ですが、ゴーリストでは、”人に伝える力”を大事にしています。
自分たちがやっていることやその価値を自ら発信していくこと、大切ですが簡単でもありません。

 

”伝える力”を磨いていくための取り組みとして、積極的にブログを書くことにしています。エンジニア、セールス、デザイナーがそれぞれ、仕事上で得たTipsや気づき・会社のことなどを、定期的に発信しています。

 

書くのが得意なメンバーもいれば、不得意で四苦八苦しながら書いているメンバーもいます。
そんな中で、今年入社のメンバーが9,500文字という大作のブログを書いてくれました。いや、もうブログの量ではないです。

 

ちなみにこの画も自分で描いたそうです。内容とはぜんぜん関係ありません。

 

f:id:goalist:20180831200324j:plain

 

発端は、日報(毎日全メンバーが書いてます)の文章がいつも長文でそれでもなぜか読ませる面白さがあったので、”人事ブログ書いてよ?”と相談したところ快く書いてくれました。

 

ただ、人事ブログとしてはあんまりにも長いのでちょっと掲載をためらいました。
冒頭、こんな風にはじまりますし。

 

新卒のペーペーが書く記事にしては随分と大仰なタイトルがついていますが、
そもそもこの記事はゴーリストに興味を持っていたり選考を受けようかと考えている方に対して、
会社の中にはこんなことを考えていたりする人もいるんですよというのを通し、
ゴーリストがどういう会社であるのかについて伝えられれば、という意図のもと書かれています。

 

なのでこの記事の内容に本質があるわけではありません。
内容の方は、とある新卒が考えていること程度の意味合いしかないです。
ちなみに、目的は目的としてちゃんとありはするのですが、僕自身はただ書きたいから書いています。 

 

こんな書き出しですが、個人的には面白く読みましたし示唆や学びもありました。何よりも、自分の考えを自分の言葉でここまで表現できることはほんとにすごいことで素直に感心しました。

 

ので、全文掲載したいと思います。メモ書きみたいなものも含めて。こんなことを考え発信するようなメンバーもいますので、ご興味ある方はぜひお読みください。
あ、最後にひとつだけ補足です。

 

ブログを書いてくれた彼もそうなのですが、ゴーリストには”就活アウトロー採用”というイベントを通じて多くのメンバーがジョインしてくれています。
アウトローということで、普通の就活(エントリーシート書いたり、志望動機考えたり)が嫌になってしまったメンバーが多く、数学オタク、ミュージシャン、落語家などなど、個性はさまざまです。でも、どのメンバーも自分の言葉で考え、表現する力を持っていて、一緒に働いていてほんとに楽しいです。

私も、僕もアウトロー、という方がいればぜひご興味お持ちください!アウトローメンバーがお迎えします。

 

それでは、ブログをどうぞ。(ほんとに長いですよ)

生きる上で、「働く」ということ

 こんにちは。
今年の4月にゴーリストに新卒として入社した増田です。
以前このブログにてスプラトゥーン2体験会のことを紹介していたマスダさんがいますが、別人です。

新卒のペーペーが書く記事にしては随分と大仰なタイトルがついていますが、
そもそもこの記事はゴーリストに興味を持っていたり選考を受けようかと考えている方に対して、
会社の中にはこんなことを考えていたりする人もいるんですよというのを通し、
ゴーリストがどういう会社であるのかについて伝えられれば、という意図のもと書かれています。

なのでこの記事の内容に本質があるわけではありません。
内容の方は、とある新卒が考えていること程度の意味合いしかないです。
ちなみに、目的は目的としてちゃんとありはするのですが、僕自身はただ書きたいから書いています。

そもそもなんで僕がこんな記事を書くことになったかと言うと、
ゴーリストには毎日その日したことを書く日報というものがあるのですが、
そこに事あるごとに余計な(人によっては面白いらしい)ことをつらつらと書いたりなどしていたら、
林さんが「ブログにしてみたら面白いんじゃない?」と言ってくれて。
日報なのに仕事とは関係のない余計なことばかり書いています。

自然体です。

という前置きはこの辺にして、僕の思う「生きる上で『働く』ということ」についてあれこれ書いていこうと思います。
ただ、そのことに対してすでに自分の考えや気持ちが固まっている訳ではないので、考えながらにはなってしまいますが。
できれば一緒に考えていただけると嬉しかったりします。

では、つらつらと。


まず、生きる上での「働く」ことを考えるにしても、そもそも「働く」とはどういうことなのかがはっきりしていないと話も進まないので、先にそのことについてざっくり考えてみます。ざっくりです。

「働く」とは一体どういうことなのか。
正直全然分かりません(おい)。

ただ、他の人も実はよく分かっていないんじゃないかと思ったりしています。
40年間働き続けてきたたような人でも、です。
働いている人が「働く」ことをよく知っているという訳ではないでしょう。
今この世界にいる人はみんな生きていますけど、
でもだからと言って生きることがどういうことなのかをよく知っているという訳ではないでしょう。
生きることがどういうことなのか分からないままに死んでいくことだって往往にしてあるはずです。
それと同じことです。

よく分からないものはとりあえずネットで検索してみるという流れがあるので、
「働くとは」という言葉で検索してみました。
そしたら「働くとは」にくっついて「何のために働くのか」というのがよく出てきました。
僕はあるものの目的とそれそのものは関係のないのではないかと思ったりするのですが、
世の人には行為の目的がその行為の本質となるのでしょうか。
いやおそらく単に働くことの本質に興味がないのでしょうね。
僕も別に興味はありません。

脇道に逸れてしまいました。
よく逸れます。今後もちょこちょこ逸れていきます。

さて、悩んでいても仕方ないのでバッサリいきます。
働くとは、「価値」を提供すること、です。
異論は色々あるだろうと思いますが、ここを深く考えたい方は本などに当たっていただくとして、僕は先に進みます。

では「価値」とはなんでしょう。
これも深く考えません。僕が考えたいのはそこではないので。
価値とは、他人の顕在的ないし潜在的要求(つまり要求/欲望)に対する相応の応答、ということにします。
状況によってはその要求(求められていること)そのものを価値と捉える方が適切な場面もあるでしょうが、
細かいことは気にせずにいきます。別に本や論文を書いている訳ではないので。

というわけで、「働く」とは「他人の要求に対して相応の応答を行うこと」ということにします。

もちろんこれでは範囲が広すぎて、これは「働く」とは言えないだろうというようなものもたくさん入ってきてしまいます。
例えば、彼女から誕生日プレゼントを欲しいと思っている男の人に対して、
その彼女が彼の誕生日にクッキーを買ってプレゼントを贈るのも「働く」ということになります。
ある男の人の「彼女からの誕生日プレゼントがほしい」という要求に対して
「プレゼントを贈る」という相応の応答をしているためです。
それは流石の僕も少なからず違和感を感じるわけですが、大らかな気持ちで見守っていただけると。

ここで少しだけ逸れます。逸れさせてください。
「働く」とは「他人の要求に対して相応の応答を行うこと」としました。
これは、その行為の結果ではなく、その行為の過程が他人の要求に沿ったものであるかどうかで判断します。

どういうことかと言いますと、例えば、「これこれこういうものがほしい」という依頼を受けてせっせと作った結果、
その要求した人が思い描いていたものとは全然違い、全くほしくないものが出来上がっていたとしても、
その依頼を受けて頑張っていた人は働いていなかったということにはなりません。
もちろん意図してその要求を無視したりしていれば別ですが。
意図とかいうのを詰めていくときっと難しいので僕は触れません。

逆に、ただ自分が作りたいものを一人で作った結果、他の人もまた実は望んでいたものだったらしくすごい売れたというような場合、その作っていた間が働いていたことになったりはしません。
というそれだけです。

この辺りも、そもそも自分の欲望は他人の欲望の模倣でしかないのだから、自分の欲望に従って行動したのならそれは他人の欲望に従っていたということで、つまり働いていたということになるのではないか、なんて言ったりできそうですけど、言わないでください。

最近よく本屋さんで「働き方」についての本を見かけます。その中に「遊ぶように働く」という言葉を見つけたりしました。ここからは僕の勝手な想像なのですが、たぶん「遊ぶように働く」とは遊ぶように、つまり自分が面白いと思うものを、何かのためではなく、それそのものを楽しむという形で行うというようなことを言っているのではないかと思っています。違うかもしれません。で、もしそのようなことを言っていた場合、僕にとっては、というより僕が考えようとしている範囲では、それは働くというものの範疇にはないことになります。遊ぶようにしていたことがたまたま結果として何がしかの価値をもたらすに至ったというだけこと。つまり、そのような意味では「遊ぶように働く」というのはあり得ないということです。簡単にまとめると、遊ぶというのはその行為そのものを目的とする行為であり、働くとはその行為を何かの別のもののための手段とする行為であるので、それが重なることはない、というようなことを言いたいだけです。

ただ、「他人の要求に対して相応の応答を行うこと」を何かの手段としではなく、それそのものとして楽しむこともできると思います。
それはまさに「遊ぶように働く」ものだと思います。というよりは、「働くことを遊ぶ」と言う方が正確でしょう。

脇道おしまいです。


さて、「働く」とは「他人の要求に対して相応の応答を行うこと」です。
営業として自社の製品を売り込みに行くのは、その会社(会社の所有者であったり経営者であったり)がその製品によって売り上げを伸ばしたいとか世の中を良くしたいとかいう要求を持っているからです。営業の方々はその要求に応えているのです。たぶん。

その会社はその営業の社員にもっとより良く売り込んでほしいと望んでいるのでしょうから、どういう経路からどういう言葉を使ってどういう流れで売るのか、つまりどのように売り込むのかを学んでいる間は働いているということになります。それが労働時間に含まれていようが含まれていなかろうが関係なく。ここでの僕の考えでは、ですけど。

世の中ではいろんな人がいろんな場所、いろんな形で働いています。
それは人の要求が様々あるからです。
オシャレになりたい。美味しい魚を食べたい。通信技術について詳しくなりたい。安心できる家に住みたい。物理法則について詳しく知りたい。腰の痛みをなくしたい。今の夫と別れたい。あのアイドルの写真がほしい。この大学に進学したい。多くの人から認知されたい。景色の良い温泉に浸かりたい。海外に行きたい。…。

環境が変われば、今では想像もできないような要求が生まれてくるのでしょうし、
そしてその要求にあった仕事もまた生まれてくるのでしょう。

何にせよ、他人の要求(というか欲望)に従っていることには変わりはないはずです。たぶん。


ここまで来たのでやっと自分の言いたいことに入っていけそうです。
もう鬱陶しく思われるでしょうが改めて、前提として「働く」とは「他人の要求に対して相応の応答を行うこと」とします。
相応とはどういうものなのかという疑問が残っていますが、流します。そこにはあまり興味ないので。

となると、世の中にあるより良い仕事のやり方と言ったようなもののほとんどは他人の要求により良い形で応えるため、ということになります。
その他人が誰であるのか、自分の上司なのか顧客なのか消費者なのか家族や友人なのか、によって応え方は大きく変わって来るでしょうけど。

ここは僕の個人的な気持ちです。
正直に言って、僕はそれに付き従うのは面倒としか思えません。
端的に働きたくないわけです。ただ、その「働きたくない」というのは、プログラミングをしたくないとか、メールを送りたくないとか、朝決まった時間までに起きたくないとかそういうことではありません。確かに朝起きるのはつらいですが。
なぜ働きたくないかというと、基本的に楽しくないからです。

もちろん大抵のものには楽しむ方法があると思っています。それはその営みをゲーム化してしまうことです。
ゲーム化というのは、本来あるはずのそれをすべき理由や目的を全て脇に追いやり忘れてしまって、それ自体を目的としてしまう、というようなことです。
例えば、営業でのテレアポであれば、いかに相手と長い時間話せるようにするか、いかに相手から多くの言葉を引き出すか。
プログラミングであれば、いかにシンプルに記述するか、いかに美しい構成にするか、いかに実行時間を削減するか。
お花屋さんであれば、いかに多くの人がそのお店の前で足を止めるようにするか、いかにそれぞれの花が美しくあるように保つか。
そういう形で、ある一連の営みを分割してそれぞれをゲーム化することで、それ自体へ没頭するための道を作ってしまうのです。
ただ、そのようにしたところで楽しめないものはどうしてもあります。
いやそんなことしてどうすんの、というような疑問がどこからともなく湧いて来たりして。

僕はサッカーは好きですが、野球には興味を持てません。
トラップやドリブルの練習をするのは苦痛ではありませんしそれ自体で楽しめますが、
素振りをしたりキャッチボールをしたりするのは正直退屈ですしそれ自体では楽しめません。

たぶんそういうのを適正と言うのだろうなと思っています。
それ自体で楽しめることができるかどうか。

その適正とは別に、もう一つ適正と言われるだろうものがあると思っています。
それ自体を楽しめたりは全くしないのだけれどなぜか上手にできてしまうもの。
逆にすごく楽しめるのだけれど全然上手にはできないもの。
そういう上手にできるかどうかという適正。

僕は、できるなら両方の意味での適正があることを行なっていきたいですが、
それは難しくとも前者の方の意味での適正があることをしていきたいです。
働くことなくゲームをして生きていきたいのです。
もちろんここでのゲームとはテレビゲームやモバイルゲームのことではなく、それ自体で楽しめるもののことです。
世の中には、ゲームをして生きている人たちがたくさんいます。たぶん。
ただ自分が楽しんでしていることが、たまたま世の中的な価値を持ってしまうような人たち。
そしてまた、今はそうでない多くの人がそのような生き方をしていけるのではないかとも思っています。
できないかもしれませんが。

さて、そんなことを思っている僕がそんな生き方をできていないのはどうしてでしょうか。
それは、僕には色々と足りないものがあるからです。
自分がそれ自体を楽しめることは何であるのか、
一体どのようなものが価値を持つのか、
自分が楽しんでできることをどのようにして価値に変換していくのか、
そういうたくさんの知識。
また、それらを実際にやっていくだけの力と気持ち。

僕は一体何を言っているのでしょうか。
きっとまた本筋からちょっとずつズレてきてしまったのでしょう。
というわけで方向修正。元々進みたかった方向へ。
ただ、ここから「仕事」や「働く」といったものを僕の個人的な状況を少しイメージしながら考えていきます。
なので、突然話の範囲が狭くなってしまいます。あと随想っぽくなっていきます。

仕事をしていると、基本的には成長することを求められます。
誰かの要望によりよく応えるために。誰かの状況をよりよくするために。
それはいろんな形で言われることと思います。
自社や競合他社の商品に関する知識を付けろ。最新の技術をキャッチアップしておけ。自分のタスクはちゃんと管理しておくように。...。

もちろんそれは良いのです。
仕事とはそういうものなのでしょうから。
でも、どうしても引っかかってしまうことが一つだけあります。
それは、そういった形で求められる成長というものが、仕事を離れた人格そのものや人間性といった部分での成長だと見なされているように感じることです。人格や人間性というのも随分怪しい言葉ですが、というか僕は嫌いなくらいですが、ここは我慢します。

仕事とは他人の要求に応えることだとすると、その仕事における力を磨くというのは他人の要求によりよく応えられるようになるということでしかありません。にも関わらず、その仕事上での成長が人としての成長というように読み替えられてしまっているような気がしてなりません。もちろんそのようなことを言われるときというのは大抵仕事をしているときですから、そういうあれこれが良いものとして言われるのは当然なのですが、仕事という枠を離れてもなおそれが成長という何らかのプラスの意味を持つものとして捉えられているように感じてしまうのです。

働く以上は基本的に人と関わることになるでしょうから、そういう人との関わりという面での成長というものが仕事をする中で促されることも多いでしょう。そういう人間関係上での振る舞い方や言葉遣いというものが、仕事を離れてもなお良いものとして捉えられることは理解できます。また、世の中の多くのことは仕事というもので繋がって回っているのでしょうから、単に生活をする上でも仕事で得た知識や能力が活かされるということも往々にしてあるでしょう。

でも、基本的にはあくまで仕事の上でのことでしかなく、そしてまた仕事が全てでもないはずです。
成長という言葉が、働く上で求められる努力が、働くという文脈を離れてもなお意味を持つかのように言われていることに違和感を感じます。
もしかしたらそんなことは全く言われておらず、僕が勝手に勘違いをしているだけなのかもしれませんけど。

成長と言われるものは、内容としてはただの変化でしかありません。
そして何らかの変化を良いものとして捉えるには、それに相応しい文脈が必ず必要になってきます。
文脈がなければ変化はただの変化です。良いものでも悪いものでもないはずです。


働いていれば、おそらく多くの場合に成長することを求められ続けます。
次は今よりも、明日は今日よりも、来年は今年よりも、より良く、さらに成長を、と。

そのどこまでも前向きな姿勢が、僕にはしんどく、窮屈に感じられてしまいます。
明日に向けて、来月に向けて、来年に向けて。
そういった形で自分を未来へと投げかけるということは、この今を、未来への過程として捉えるということです。
明日のための今日であり、来月のための今月であり、来年のための今年である、ということ。
そしてその未来もまた、そのもっと先にある自分の(あるいは誰かの)理想像へと向かっていくための過程で...。

さらに仕事という場所は、目的-手段で繋がれた網で覆われているようにも思います。

そうやって今の自分の存在や行動がいろんな次元で意味付けられていることをすごく窮屈に感じてしまうのですが、他の人はそうでもないのでしょうか。僕は、何かの知識を得たり心を振るわせるために本を読んだりしたくないですし、美容や健康だったりのためにご飯を食べたくはないですし、週明けの仕事のために週末をリフレッシュに費やしたくなんかありません。

僕は、生きるというのは仕事と言われているものよりももっと広いものだと思っています。
仕事というのは、生きている上で出会う何かの一つでしかありません。
僕にとって「生きる」ことがどういうことなのかは今回省略します。
時間もエネルギーもないので。いつか書かせてもらえたら良いなぁとか思いながら。

「働く」ことと「生きる」こと。
「何かのため」と「それそのもの」を。
今も僕にはなかなか擦り合わせることができないでいるのですが、そもそも捉え方自体を間違っているのかもしれないなと思ったりもしています。本当はそんなことはどうでも良いことで、もっと大事な何かがあったりするのかもしれないとも。


何だか中途半端なことこの上ないですが、この辺りで切り上げます。
最終的にここで言えたのはタイトルになっていた「生きる上で、『働く』ということ」よりもっと狭いことになってしまいました。
結局どういうことなのかについては一言も触れないというヘタレっぷりです。文章力のなさ。
「生きる」って何、っていうのも丸々残っていますし。

実はちょっとしたメモ書きもあったりして、個人的には消したかったのですが、要望あったのでそれも一緒に。
長いものには巻かれていきます。

〜〜〜メモ〜〜〜
普通に働いていると求められるだろうスキルや成長というものは、
全部他人の要求に応えるための適応にすぎない。

そんなもののために自分の人生の大半を費やすなんて馬鹿らしい。
市場価値などというつまらないもののために振り回されるのも同じ。

もちろんそうやって世の中は回っていて、その回っている世の中に支えられて生きているのはそうなのだけど、
でも現在そうなっている(つまらないと思いながら仕事をしている人がたくさんいる)からといってそうあるべきなわけではないし、
それが良いとも思わない。

もし全員が全員やりたいことをやるだけでは世の中は回らないのだとしたら、
別に回る必要なんかないんじゃないかとさえ思う。きっとめっちゃ困るだろうけど。
【でも、役割分担によって支えられている世の中の、その役割の一端を担っているのだ、というように考えて、
【それを受け入れて生きていく、というのも方向性の一つとしてありそうです。
【その方向では書きませんけど。

人生なんてただの無駄で、無意味で、無目的で。だから良くて、すてきで。
自分が存在している理由も分からなくて、何が存在しているのかも分からなくて。

どうせ生きるなら、自分のしたいこと、それ自体を楽しめることをしていきたい。

でも、今の自分にはそれだけの力がない。
だから働く。
今の世の中の仕組みに取り込まれれば見えてくるものもあるだろうから。
外から眺めているだけでは見えないようなことが。たぶん。
何も見えないかもしれないし、むしろ見えなくなるかもしれないけれど。
【この辺はただの嘘なのでたぶん書きません。

【本当はある欲望・要求が供給側から巧みに作り上げられたものでしかないかもしれないとか、
【分業化・専門家されることで世の中上手いこと回っているとか
【ここも含めて言いたいのだけどな、と思うことがいくつかあったりするのですが、
【どこまでも広がってしまって収拾つかないだろうので諦めています。

【書いていると全然違う方向へのイメージが出て来てしまって、下書き書き直したい衝動に駆られてます。
【別に面白くもないですし。
【書けば書くほど書ける気がしなくなってきます。
【就活中に思っていたことなら書けそうなのですが、そうなると本当に個人的なものになってしまうので、
【人事ブログという枠で載せる必要がないのではないかと。自己紹介でええやん、て。

【基本的に書きたいことの中心になるのは違和感とか引っかかりなので
【導入からちゃんと構成した方が良いかなと思い始めています。枝がどんどん増えて太くなっていって...剪定しないと...。
【違和感というのは、成長に対する受け取り方(?)であったりビジネスマナーであったり子どもと大人(社会人)という二分法的な考えだったり
【そんな感じのことです。
【働くことそのものというよりは、働くことを取り巻くものでしょうか。

〜〜〜メモ終わり〜〜〜


忘れてはいけないのですが、この文章はあくまで採用に向けてのものでした。
というわけでしっかりちゃっかりおまけみたいなものもちゃんと書いておきます。

「働く」とは、みたいなことを僕はよく考えたりするのですが、別に学部時代にそういう勉強をしていたりはしません。
工学部でしたし、何なら二留しています。講義を受けるよりも読書や夜更かしの方を大事にしていました。
授業料払ってるの誰や思ってんねん、というような道義的責任を突っつくようなことはしないでいただけると。
ゆったりと本を読むのは好きでしたが、たくさん読んだりはしていません。深呼吸程度です。

僕は、電車に揺られているとき、お布団に入って瞼を閉じたとき、空がきれいで澄んでいるとき、あれこれ考えたりしています。
そんな人がいる会社です。

そして、こんなことを考えているというこの上なく個人的なことを、会社のブログで出したりなんかしています。
そんなことができる会社です。

ちなみに、僕よりももっと賢くて、もっと深いことを考えている人もいます。たぶん。
僕はあまり人と話さないのでよく知りません。
ただ、そういう何だか賢そうな言葉の欠片を見かけたりはしているので。

ここを読んでいるということはたぶん本文も読んでもらえているということだと勝手に思っています。
あの文章を読んで、「何言ってんだこいつ」とか「つまらないなぁ」とかいうくらいの感想しか持たなかった人もいるでしょう。
「いやいや自分の方がもっと深く考えてる」とか「この部分がダメ」とか思った人もいるでしょう。
「なるほど」なんて思った人はいないでしょう。

とりあえず多少なりとも面白そうだと思っていただけたら、僕の役目は果たされたことになります。

僕みたいな人もいます。
僕とは全然違うような人もいます。
いろいろです(当たり前)。

というわけで、お待ちしております。
同じ匂いを感じたら是非!!
なんか違うなと思われても僕が特異なだけかもしれませんのでご心配なさらず。